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本のクソ虫野郎

  ~気に入った本・映画の記録と雑記~
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非属の才能


非属の才能 (光文社新書)非属の才能 (光文社新書)
(2007/12/13)
山田 玲司

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(著者略歴)
1966年東京都生まれ。チベットの高僧から歌舞伎町のホストまで、世界で最も多くの人に話を聞いている漫画家。20歳で漫画家デビューした後、恋愛のマニュアル化を風刺した『Bバージン』で一気にブレイク。2003年、宮藤官九郎と共に『ゼブラーマン』で大人の問題に白黒つけつつ、現実世界に希望を求めて、対談漫画『絶望に効く薬』を開始。約100人目のオノ・ヨーコさんにインタビュー中、”非属”という概念を思いつく。

(目次)

第1章 誰の中にも「プチ佳祐」がいる
第2章 ブルース・リーになる試験はない
第3章 定置網にかかった人生でいいのか?
第4章 「変わり者」が群れを動かす
第5章 非属の扉をこじ開ける方法
第6章 独創性は孤立が作る
第7章 和をもって属さず

著者は多くの才能溢れる人々との対談を通して確信した独創性を、集団や社会に安易に従わない状態=非属の状態による賜物だと考え、そこからさらに、「みんなと同じが求められるこの国で、みんなと違う自分らしい人生を送る方法」について思索する。


「才能というものは”どこにも属せない感覚”のなかにこそある」

これが著者の一つの結論。
学生時代に一人も友達がいなかった、ほとんど喋らなかった人が芸人になって舞台やテレビで大活躍する様、世間一般からすると奇特とされる考えや趣味を持つ人が芸術界に溢れていること、学者界にも変わり者がごろごろいることなどを見れば、それも納得できそうなものです。
そしてその様な人たちの多くが、意識的であれ、無意識的であれ、その自分の中の「どこにも属せない感覚」を信じ続けたことが大きな成功要因とも言える。

社会における「協調」とは聞こえこそいいものの、実際は「同調の圧力」がほとんど。
特に現代の社会では、今まで以上に、何かしらの点で他から抜きん出た人間が重宝される時代になっているため、ますます従来の「みんなと同じはいいこと」という価値観は意味を成さない。

従来及び今日の日本の教育も、社会活動における根本的な部分にも、「考えないこと」が求められるような価値観が蔓延っている。「考えない」で「疑問を持たない」で勉強し、良い成績を取り、良い大学へ行き、周りのするように就職するのが当然であり、それ以外の道への可能性には目もくれない。
しかしこれはもちろん、本人らしさを発揮した、幸せな人生を送る最良の道とは言い難い上に、逆境への耐性も身に付かない、何せ周りの言い成りになって流れて来たのだから。

ほとんどの人は、「なぜ、自分は生きているのか?」「自分のやりたいことはなんなのか?」という人生の大問題を先送りし、時に誤魔化し生きている。大切なのは、自分の中にある「非属の才能」を信じること。

天才の構成要素とは、ちょっとした才能と大いなる努力、そして、群れの価値観に流されず、「自分という絶対的なブランド」を信じ続ける”自分力”なのかもしれない。


非生産的な要素の中にこそ、非属の才能は眠っているもの

現在の「真っ当な」教育環境の中では、個人の癖とも言える非属の才能は矯正され、潰されてしまう。一見、正攻法的でないおかしな考え方などからこそ、独創性や比類ない才能は磨かれる。
そのため、「これが正解」「これが普通」「これが常識」という同調を押し付けることは個人を、延いては社会を劣悪なものへと押し進めることにさえ成り得る。
そして何とも難しいのは、その同調への圧力が、本当に悪気なく行われるという点である。教師も個人も、周りと同じであることに疑問を持たせない、価値観の押し付けを正しいことと無意識的に考えているのが一番の問題。


エルメスのバーキンはただの鞄

女性の憧れ、エルメスのバーキンはただの鞄であり、人の評価を前提に、商品の記号性を求めて高額な料金を払っているに過ぎない。それでほめられているのはバーキンであり、その人自身ではない。


医者や弁護士や東大生や一流企業社員になる試験はあっても、ブルース・リーになる試験はない

いくら立派だとされるこれらのタグを身に付けたところで、それは決して「唯一無二の存在」ではない。
虎の威を借る狐は結局、狐であり、いつまで経っても虎にはなれない。それならば、自分で自分を誇れる「最高の狐」になる方がいい。「いかに良い群れに属すか」という呪いから自分を解き放つ必要がある。


子供の失敗チャンスを奪うな

親が本当にするべきは、子供に失敗させること。幼少期に子供の失敗を容認することは、実は巨大な先行投資となる。少し大げさに言えば、子供の未来は、親が子供の失敗をどれだけ許せるかで決まると考えてもいい。


定置網にかかったままの人生でいいのか?

オリコンチャート、ベストセラーを初め、多くの人が買い求めるものを買うということは、ある意味「目に見えない定置網に引っ掛かる」ことだとも言える。
もちろん、多くの人が認めるものが悪いというわけではない、問題なのは、「思考停止してみんなの行く方向にただついて行くことに慣れてしまうと、正しいとされることを必死に努力しているのに、いつまで経っても報われない事態になることが間々ある」ということ。


体に悪いうさぎ跳びを野球少年に散々やらせてきたように、この国ではよく、考えずに意味のない努力をさせがち

当然であるが、努力には目的というものがある。そのため、手段としての努力の質とは、その合目的度や、継続可能性などの実利面でもっと測られて然るべき。
そして努力とは何も苦痛に顔を歪めて汗水垂らして行うものとは限らない。むしろ、無意識的に一日中没頭してまでしてしまうような、快楽を感じながらに行われる努力も多々ある。有名な学者が、その研究を好きで好きで研究し続け、やがてノーベル賞やフィールズ賞を受賞してしまうなどは最も有名な例である。

逆に、自分で考えたり、行動することを怠けているにも関わらず、真面目に一生懸命に生きているように見えることは、余りにも多い。


王道はどこも大渋滞

人気スポーツやミュージシャンなど、将来の夢の代名詞のようなものは、今やどこも大渋滞の状態である。そして王道とは、皆が知っている漁場のようなもの。新しい漁場を開拓するぐらいの気持ちで、新たな道を模索するのもいい。本当に魅力的なものは道のないところにある。


「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、それは自分の頭で考えることのできる人間が集まった時の話で、現実は「三人寄れば場の空気で」といったことの方が多いだろう。

群衆の英知も、群衆を構成する個人個人の質によって、大いに左右される。ということは、多数派の優先も論理的に怪しくなる。
変わり者(少数意見)のない群れは、多数決と同じでいつも同じ思考・行動を繰り返し、環境や時代の変化に対応できず、やがては群れごと淘汰されてしまう。

※このような「少数派の重要性」は、マックス・ウェーバーやジョン・スチュアート・ミルなどの偉人が、昔から「多数の暴力」などの表現で、「少数派の意見に耳を傾けない社会に文明的進歩はあり得ない」と説いている。その頃の少数派とは、いわゆる知識人のことを指していたが、今日では、必ずしもそのような大仰な立場にある人でなくてもよく、上記のような非属の才能を持った、変わり者・少数派と考えればいいと思います。


進化はエラーから始まる

遺伝子のコピーの精度は高く、ほとんど完璧にその遺伝子を伝えていくが、ごく稀に些細なエラーを起こす。そしてそのような意味不明で無用な性質が、時として劇的な環境適応能力を発揮することがある。場面が変われば、「無用の障害」が「有用な才能」となり得る。


自分探しとは、自分の「非属の才能」を見つけることに他ならない

普段から属を外れて物事を見たり考えたりする習慣を持つ必要がある。


人はある程度満たされていると、自分自身がどのような状態にいるのか分からなくなるものらしい

逆に情報が少なければ少ない程、制約が多ければ多い程、想像力は豊かになり、現実を見る目は鋭くなるかもしれない。メディアや周囲の意見をある程度制約して、自分自身の興味と価値観で意思決定する必要がある。


知識より教養

自分の属す群れの外にどれだけの世界が広がっているのか?
どんな変化が起こっているのか?
どんな可能性があるのか?

そういった「世界」を知っている人間こそが、維新を起こす。


むしろ僕は、引きこもりになるような人間にこそ、非属の才能を開花させる可能性があると信じている

(著者は)引きこもりは甘えではなく、引きこもりのことをバッシングする人間の方が甘えているように考える。
彼らは往々にして、大きな群れの中で思考停止という「甘えた状態」にいることが多い。「みんながすることは正しい」「周りの人が右を向いたら自分も右を向く」と無条件で考えるのは、自分の頭(感覚)を使わない、最も楽な方法だろう。

要は、学校嫌いや引きこもりは、「群れの価値観よりも自分の価値観を信じる人間という何よりの証拠」。


群れ全体の幸福を考えるのが「政治」だとしたら、群れからはぐれた一匹の子羊の内面を照らすのが「文学」だろう

評価を問わず、多くのジャンルの書物に触れ、玉石混交の中から、一冊の、人生を支えるバイブルを見つける。
世間の評判は横に置いて、自分はどう感じるかを大事にして、作者と一対一で向き合うと、いつか必ず、探し求めていた答えと出会うことが出来るだろう。

また、時代を超えて愛される名作は「何か」が潜んでいる。是非何冊かを最後まで読むことを勧める。

※後半の古典的名作のススメは、アルトゥール・ショウペンハウアーの、「読書について」での意見との一致を見せていますね。


俗世間の様々の情報をシャットアウトして、自分と向き合わねばならぬ状況を作れば、いずれ俗世で感じていた違和感の正体や「自分のすべきこと」が見えてくる。

自分が何かものを作ったり、表現をしたのなら、周りの意見に余り耳を傾けないようにしなければならない。
群れの価値観が作る意味のない意見に負けてしまえば、全ての革新的可能性は消えてしまうのである。


独創性は孤立が作るが、孤立は孤独ではない

むしろ群れる人ほど孤独であると言える。いくらいつも多くの人に囲まれて、大盛り上がりでいようとも、心はバラバラで、大して繋がりが無かったりする。「あなたは今こんなことを言っているけど、本当はこうなんじゃないの?」などという深い心のやり取りなどほとんどないなど。

自分が孤立していようが、自分の子供が孤立していようが、その時本人が何かにひたすら向き合っているならば、心配することは何もない。


和をもって属さず

その人の変わっている部分がみんなに喜びを与えたり、何らかの利益をもたらしたりすることで、みんなはその非属の変わり者を歓迎することもあり得る。同調しないのはいいが、協調もしないような人間であってはいけない。
「自分」が「自分様」に肥大してしまわないように、自意識のコントロールが必要である。

非属ということは自分の世界から出ないということではない。同調圧力で見失いかけた自分を見つけたら、いつまでも引きこもった旅暮らしを続けたりする必要は全くない。「どこにも属さない自分」を誇りに思いつつ、無条件で相手の話を聞く。

どこにも属さないとは言いつつも、人と重なる部分はたくさんある。
自分の世界を大切にしつつ、その自らの世界をエンターテイメントとして相手に提供する術を持つ。

『群れずにつながる』ことが重要。


※本書は筆者の、多くの才能溢れる人たちとの対談という稀な経験から、「少数派の持つ革新への可能性」や「衆愚性」「消費社会の問題」を、多くの具体例や平易な解説で、改めて主張されているという点で良い作品なのではないかなと考えています。少数意見の重要性や衆愚性への警告、大衆消費社会の問題点やメディアの歪みなどは昔から多くの社会学者や哲学者によっても語られていますが、同じ結論ではあっても、著者独自の経験と、それによる視点からそれが語られるということがまた新鮮で意味があると思います。

そしてそういった非属と著者が呼ぶ少数派を重要視すること、我々はもっと社会や周囲の意見に惑わされずに、素直に自分の頭で考え、自分で意思決定して生きることの大切さを様々な視点から説き、周りとの調和も考慮に入れながら論じていることが意義を持つと考えています。

現実の社会や自分に違和感を感じている人は、是非とも一読して考えてみることをお勧めします。

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