FC2ブログ

本のクソ虫野郎

  ~気に入った本・映画の記録と雑記~
Posted by ↑野

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Posted by ↑野   0 comments   0 trackback

怠惰への賛歌

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)
(2009/08)
バートランド ラッセル

商品詳細を見る


第一章 怠惰への賛歌
第二章 「無用」の知識
第三章 建築と社会問題
第四章 現代版マイダス王
第五章 ファシズム由来
第六章 前門の虎、後門の狼
第七章 社会主義の問題
第八章 西欧文明
第九章 青年の冷笑
第十章 一本調子の現代
第十一章 人間対昆虫
第十二章 教育と訓練
第十三章 克己心と健全な精神
第十四章 彗星について
第十五章 霊魂とは何であるか

個人的に好きなバートランドラッセルの著作。
タイトルの通り、過度の勤勉・労働讃美への批判、社会全体でもっと時間的・労力的余裕を持つことによる様々な効用を独自の視点で説いてらっしゃいます。

ラッセルは多くの哲学者・経済学者・思想家の中でもかなりの洞察眼と、数理的な鋭い分析とそれに基づく論理構成が得意な人なのでやはり反論を差し挟むのが容易ではないと感じました。
特にラッセルは数理哲学も得意としており、その論理の正確さ、難解さには定評があるとのこと。

この著作はエッセイ集なので、実質タイトルのような怠惰への賛歌についてを語っているのは一部の章でした。
そのため、今回はその怠惰への賛歌の部分だけをまとめています。
ラッセルは、まず最初に、「仕事はよいものだという信念が、恐ろしく多くの害を引き起こしている」と述べる。それを主張する背景として、

社会の発展による生産性の向上→時間の余暇がより多くの人のものになるべき

ということが言えるとしている。

ここで彼から有名な言葉『勤労の道徳は奴隷の道徳であるが、近代社会は奴隷を必要としない』という至言が発せられる。この現代社会においては、100年200年前よりも考えられないほどに労働生産性を高め、より少ない人手でより多くの物を生み出し、余剰価値を産んだはずである。

しかしそれに対して人々は相も変わらず過剰と呼べるほどに長時間働き、それを良き習慣であるとさえ思いこむ人々で溢れかえっている。つまり、せっかく手にできるはずの時間的余裕を趣味やその他の活動へと消費せず、それどころか労働関連の苦悩を絶えず経験し続ける人々が続出しているのは、これは常軌を逸していると。

さらに、その時間的富、つまり「暇」ということについて、『暇こそ文明にとって無くてはならぬものであり、昔は少数の暇はただ多くの者の労働によって出来上がっていた。しかし、近代の技術を以ってすれば、文明を傷つけることなしに、暇を公平に分配することも出来るはずである』と言明している。

もちろんラッセルは、「働かないこと」「勤勉に働く者とぶらぶらする者がいる労働時間格差社会」を支持しているわけではなく、最長でも一人当たり4時間程度の労働に勤しみ、それ以外の時間を家族と過ごすなり、趣味に使うなり、知識の習得に当てて自己の精神を豊かにすることを勧めているのである。

暇を上手く使うということは、文明と教育の結果できるものだと言わなければならない。そして、相当の暇の時間がないと、人生の最も素晴らしいものと縁がなくなることが多い』とのこと。

『現代人は、何事も何か外の目的のためになすべきで、それ自体のためになすべきでないと考えている。利益をもたらす活動が、望ましいものだという考えこそあらゆるものをメチャクチャにしてしまう。金銭を儲けることは善事で、金銭を費やすことは悪事だとされている。だが、金を儲けるのも使うのも共に一つの取引の両面であると悟ると、こういう言い方は間違いである。鍵はいいが、鍵穴は悪いと言うようなものだ』

さらにラッセルは、冒頭でも少し述べた、余暇の時間が社会にもたらす正のフィードバックにも触れる。

『昔、少人数の有閑階級は、社会的正義に全く根ざしていない利益を楽しんでいた。このためどうしてもこの階級は気持ちが暴君的になり、同情心が乏しくなり、自分の階級の特権を正当化しようとした。そのおかげでこの階級の優れた点は大いに減っていった。だが、この引け目があるにも関わらず、有閑階級は、私たちが文明と呼ぶものの殆ど全部を与えてくれた。この階級は芸術を培い、科学を発見し、書物を書き、哲学を創り、社会関係を上品なものにした』

しかし、ラッセルは、当時の有閑階級のやり口は無駄も多く、階級全体としては甚だ無駄が多いと言う。
そのため、現代のような世界で、かつてのごく少数の有閑階級ではなく、「より多くの人々に有閑が与えられた時の方が圧倒的に社会は進歩すると説く。

誰もが膨大な時間を労働に強制される代わりに、各々が持つ知的好奇心や芸術への関心を高め、一見実利的でないことに没頭することによって、より文明は豊かになるとする。

いわゆる「無用の知識」は長所を持っており、それが人々の「心の瞑想的な習慣を強める」ことである。
このような、余暇を利用した学問・芸術などの一見無用な知識への従事は、行動ではなく思索の中に喜びを見出す習慣を作り、無知に陥ったり、権力に愛着しすぎたりしないようにする安全弁であり、また、不幸に襲われても落ち着き、苦悩があっても心の平和を保つ手段ともなる。

『必要なものは断片的な専門知識ではなく、人間生活全体の目的という考えを奮い起こす知識である。即ち、芸術及び歴史であり、英雄的な人々の生涯を良く知り、宇宙における人間の不思議なほど偶然ではかない地位をいくらかでも理解することである』

『公私両面にわたる不幸を征服することのできるのは、意志と知性が共に働き合う方法より他にない』


巻末解説に載っている本書の重要ポイントまとめ

・この本は、成長至上主義がもたらす非人間的な結果を予見し、人々の考え方の転換を説いたものであり、傾聴に値する

・人類にとってまったく新しい閑暇の時代においては、我々が永い貧乏時代に教え込まれてきた道徳や習慣や考え方の根本的な変革に迫られるということ

・人間は経済問題を解決した暁に、初めて本当の人間らしい問題に直面するのである。その問題とは、「経済的動機に基づく労働の必要から解放された時、その自由と余暇を何に向けるのか、賢明に快適に上品に生きるためにはどうしたらいいのか」ということである

・閑暇をいかに賢明に使うかは、文明と教育に依存する。これまでの人類の歴史において、学問や芸術といった人類の遺産とも言うべき文明を生みだしたものは、これらのものの創造に従事できる人々の閑暇であった。故に、学校とは本来、閑暇の在り方、即ち人間的生活のセンスを学ぶ場であった。

・経済発展の過程において、新しい財・サービスが開発され、新しい欲求が満たされていくのとは異なって、原始的な生活において容易に充足された「人間本来のニーズ」=「原始的幸福」=「人生における喜び」、こういったものは工業化と文明において逆に近代人の生活から減少している。これはルソーが文明人の「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」の欺瞞を暴き、「未開人の高貴さ」を謳い上げたことを想起させる。

・ラッセルは、社会に友情や愛情が溢れ、見知らぬ人々どうしが平和に暮らすためには、正義が社会を支配し、社会的不平等を是正することが必要と説く。ところが逆に経済発展による物質的進歩や効率や競争の追求が、最大の社会的対立の源となっている。経済的繁栄の成果は、本来社会的対立を避けるために(生産性の上昇、効率性の上昇によって余った時間や労力を広く分配することによって)格差の緩和という形で使うべきである。

・芸術的創造力を保つためには社会が生産活動に最高の価値を置くのをやめなければならない。そして、生産をこれ以上重視する必要のない時代が今まさに到来したのである。

・基礎科学や純粋科学よりも応用科学における成果を重要視する実用主義の考え方は、核兵器や環境破壊を含む非人間的な帰結をもたらしたばかりではなく、科学自身の潜在可能性を圧殺している。人文・社会科学は、科学技術が奉仕すべき人間的目的の在り方と、そのための社会的仕組みを論ずる学問である。


○しおのやゆういちさんによる現代諸問題への怠惰礼賛応用の考察

・ゆとり教育

ゆとり教育問題とは学習時間の問題ではなく、専門教育に対して教養教育に重点を置くものと考える
学習時間の減少及び学力低下に目を置くのではなく、そもそもの学問の内容を問うべきである。
何のための知識か、何を教えるべきかを重視してそこからブレずに考えるべき課題である。

・少子化

少子化は、女性の社会参加によって結婚や出産が阻害された結果であるというよりも、人間的な本能的幸福すら許容しない労働至上主義の結果である。女性の社会参加は、経済発展の成果として人権拡張を意味する。両性が働くのであれば、社会全体の労働時間の短縮が可能になり、両性共にゆとりある生活が可能になるはずではないか。ところが、経済的繁栄の下で可能になった女性の社会参加が伝統的な労働と結びついた結果、閑暇はもちろんのこと、出産さえ社会から奪われてしまったのである。

・ニート・フリーター

会社に就職するのが当り前との古い概念に反し、自分に相応しい仕事を見出そうとする若者が増えており、それを批判する社会的風潮がある。彼らを就業意欲がないと言って批判することは、ラッセル的「怠惰」を求める新しい
タイプの人間を再び産業社会の道徳によって断罪することに他ならない。失業と貧困の増大は確かに重大事である。しかし不況による失業の事実とフリーターの理念とを混同してはならない。不況下の首切りの事態は、未曾有の経済的繁栄にも関わらず、経済成長の果実をゆとりと閑暇という形で定着させてこなかった経済システムの非先見性が露わになったものではないか。
技術進歩によって労働生産性が二倍になれば労働時間は半分で済むはずである。その半分の時間でかなり快適な生活ができるはずであるにも関わらず、働き過ぎることを正常と見なす社会では、需要が増えない限り過剰な労働は失業と見なされ、必要のない仕事を作りださねばならなくなる。

・過労死

最も悲惨な問題がこれである。産業社会を極限まで押し進めるならば、その果てには絶望の世界があることをラッセルは鋭く予見したのではないか。労働を美徳とする似非道徳の帰結が過労による病死や自殺であった。


我々は華やいだ「怠惰への賛歌」の代わりに、なお「労働への挽歌」を歌い続けなければならないのだろうか。

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://shimonetazawa.blog61.fc2.com/tb.php/30-4724e777
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。