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本のクソ虫野郎

  ~気に入った本・映画の記録と雑記~
Posted by ↑野

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菜根譚


菜根譚 (講談社学術文庫)菜根譚 (講談社学術文庫)
(1986/06/05)
不明

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あまりにも有名な中国の古典の一つ。
洪自誠という名の著者による、三教一致の立場から説く処世訓の数々が書かれています。

今回も特に気になった部分を記録しておくに留めます。



自己の心をしっかりと自分のものにすることがまだできなかったならば、自分自身を騒がしい俗世間から断ち切るのがよい。そうして自分の心をして、欲しいものを見ないようにして乱れさせないで、それによって自己の本来の清静な本体を澄ますようにする。 これに対して、自分の心を堅く保つことができるようなら、自分自身を俗塵の巷に投げ込んでもよい。そうして自分の心をして、欲しいものを見ても乱れないようにし、それによって俗世間にとらわれない自由自在なはたらきを養うようにする。 ー 386ページ


試しに、この自分というものがまだ生まれない以前に、どのような姿形をしていたかを考え、また自分が死んだ後に、この肉体がどのようなありさまになるかをよく考えてみたなら、あらゆる雑念は、火の気のなくなった灰のように冷たく停止して、ただ本来の性だけが静かに澄み切ってあらわれ、自然と現実の相対の世界を越え、いまだ生ぜざる以前の本来の世界に逍遥することができる。 ー 377ページ


世俗を脱却した人の風流は、すべて自分の心の赴くままに悠々自適することである。もし、世間の一般的な形式にとらわれたり、古い慣例にこだわったりすると、俗世間の苦しみの中に落ち込んでしまう。 ー 376ページ


自分がみずから主となり、外物を従としてこれを使いこなすような人は、ものを得たとしても、もともと差ほど喜びもしないし、ものを失っても、また差ほど困りもしないで、この広大な大地をすべて悠々自適の地としている。 これに対して、外物が主となり、自分が従となって外物に使役されているような人は、逆境にある時はもちろん他を憎みやすく、順境にある時でも、そのかなえられた境遇に愛着して、毛すじほどの小さなつまらない事柄にも、それに束縛されて身動きができないでいる。 ー 374ページ


天地の間にあるあらゆるもの、人間関係における様々な感情、世間におけるすべての出来事は、これを世俗的な目で見れば、いろいろと入り乱れ異なっているようであるが、もし悟りの目で見たならば、そのようないろいろのことも、結局はすべて常住不変の一つのことである。だから、どうしてむやみに区別をしたり、良いものは取り悪いものは捨てたりする必要があろうか。 ー 364ページ


黄金も粗金の中から取り出され、玉も粗玉の中から出てくる。このように、仮の幻ものであっても、この現実の世の中からでなかったならば真実は求められない。 ー 363ページ


物質的欲望に縛られていると、自分のこの人生がつまらなくかなしむべきものであることがわかり、自然の本性に安んじていると、自分の人生が有意義で楽しむべきものであることがわかる。その人生がどうして悲しいものであるかを悟ると、世俗的な執着の心はすぐになくなってしまい、その人生がどうして楽しいものばかりであるかを悟れば、すぐれた聖人の境地が自然と開けてくる。 ー 350ページ


魚は水を忘れ、鳥は風を知らず 魚は水を得てそこで自由に泳ぎ回り、水のあることをすっかり忘れており、鳥は風に乗ってそこで自由に飛び回り、風のあることをすっかり忘れてしまっている。人もこの道理を悟ったならば、外物に動かされる煩わしさを超越することもできるし、自然の妙なるはたらきを楽しむこともできる。 ー 342ページ


人の心や世の中のありさまは、たちまち変わり、またいろいろな様相を呈する。だから、ある一点だけを取り上げてそれだけが真実であるとしてはいけない。人はいつでもこのような見方をしたならば、そうすれば胸の中につかえているわだかまりも解いてしまうことができよう。 ー 330ページ


最も高遠な真理というものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出てくる。だから、殊更に意を用いて技巧を加えたならば、かえって真実から遠くなり、自然なままに無心であったならば、自ずから真実に近くなる。 ー 306ページ


名声を世に誇るのは、できるだけ名声から逃れようとする味わいのある心のあり方には及ばない。また、何事か物事を行おうと工夫するのは、どうして余計なことをやらないでゆったりとしているのに及ぼうか。 ー 301ページ


足るを知り、善く用いる すべて目の前に起こってくる現実の問題は、満足することを知る者にとっては、仙人が住んでいるとされる理想郷のようなものであり、満足することを知らない者にとっては、凡人の欲望に満ちた世界である。また、すべて世間一般にあらわれる事柄は、その本来の姿にしたがってよく用いる人にとっては、ものを生かすはたらきであり、本来の姿をそこなうような人にとっては、ものを殺すはたらきとなる。―291ページ


人の一生は、たとえば石火の火花のようにほんの一瞬のことであるのに、どちらが長いか短いかと、つまらないことを争っている。そのような人間の一生は、どれほどの月日があるというのだろうか。また、この世は蝸牛の角の上のようなごく狭い場所であるのに、その上で人間は、勝った負けたと比べ騒いでいる。そのような人間の生きている場所は、どれくらいの大きさの世界であろうか。 ー 282ページ


心中に物に対する欲望が起きないと、その人の心の中は、澄みきった秋の空や、雨のあがった海のように、カラリと晴れわたっている。また、身近に琴と書物とがあると、その人のいる場所はそのまま、仙人の住み家や仙郷のように、俗世を離れて静かになる。 ー 277ページ


世の人は、文字を用いて書いてある書物を読むことは知っているが、文字を用いていない書物を読むことは知らない。また、絃が張ってある琴を弾くことは知っているが、絃が張っていない琴を弾くことは知らない。文字や絃という具体的なものがあればそれを信ずるが、心というような抽象的なものは信じられないなら、どうして琴や書がほんとうに語ろうとする心が理解できよう。 ー 276ページ


風流の心を得るには、多くのものを見る必要はない。盆ほどの小さな池や拳ほどの石を並べただけの平凡な庭にも、かすみたなびく美しい風景は十分にそなわっている。心にかなった景色に会うには、遠くまで出かける必要はない。よもぎの生い茂る窓や竹屋根のあばら屋のような普通の住まいにも、さわやかな風や清らかな月の光は、自然に遠くからやってくる。 ー 273ページ


世俗を離れた自然の中の生活の楽しみをことさらに語る者は、まだ必ずしもほんとうに自然の中に閑居した生活における風流な心を会得しているとはかぎらない。また、名声や利欲の話を聞くことをことさらに嫌う者は、まだ必ずしもまったく明利を求める心を忘れ去っているとはかぎらない。 ー 268ページ


他人を信用する人は、他人は必ずしもすべてに誠があるとは限らないが、少なくとも、自分だけは誠があることになる。これに対し、他人を疑う人は、他人は必ずしもすべてに偽りがあるとは限らないが、少なくとも自分はまず欺いていることになる。 ー 303ページ


今の人の不徳や失敗を話し合うのは、古の聖人や賢人の立派な言行を語り合うのには及ばない。 ー 199ページ


水は波さえなければ、そのまま静かなものであり、鏡は曇っていなければ、そのまま事実をはっきりと写し出す。だから、人の心もことさら清くしようとする必要はない。心を濁らす俗念を取り除けば、本来の清らかさがそのままあらわれてくる。また楽しみも、必ずしも自分の外に求める必要はない。心を苦しめる雑念を取り払うことができれば、本来の楽しみがそのままそこにあるのである。 ー 194ページ


人徳は才能の主人であって、才能は人徳の召使である。 ー 181ページ


大勢の人の疑いによって、一人の意見を拒んではいけない。自分の意見だけを勝手気ままに通して、人の発言を無視してはいけない。小さな恵みにこだわって、大局をそこなうようなことをしてはいけない。世論の力を借りて、それを利用して自分の気持ちだけを満足させるようなことをしてはいけない。 ー 171ページ


自分の言行を反省する人は、あらゆる事柄に触れると、それが全て自分自身の良薬となるし、人の過失を責め咎める人は、心を動かすごとに、それが全て自分を傷つける刃となる。両者の違いは天と地ほどの雲泥の差がある。 ー 188ページ


人徳はその人の心の広さに従って進み、その心の広さはその人の考えに従って成長するものである。だから、人徳を高めようと思ったならば、その人の心を広くしなければいけない。その人の心を広くしようと思ったならば、その人の考え方を向上させなくてはいけない。 ー 186ページ


他人が自分をだましていることを知ったとしても、言葉に出さず、また、他人が自分を馬鹿にしているような場合でも、顔色を変えたりしない。このような態度の中に、言い尽くせない深い意味があり、また、計り知れないはたらきがある。 ー 154ページ


文章も、技巧が最高の域にまで達すると、そこには特別に珍しい奇抜な表現があるわけではなく、ただぴったり合った表現があるだけである。人格も、最高の境地にまで達すると、そこには特別他と変わった様子があるわけではなく、ただ人間本来備わっているものがそこにあるだけである。 ー 142ページ


自分の心を、いつも心がけて円満にするようにしておけば、この人間の世界には、自然に不備だと思う環境はなくなる。また、自分の心を、いつも大らかにして広く公平にするようにしておけば、この人間世界には、自然に刺々しくねじけた心はなくなる。 ー 136ページ


幸福はことさらに求めようとしても求め得られるものではない。ただ楽しみ喜ぶ心を養い育てることが、幸福を招き寄せる根本の条件になるだけである。 ー 108ページ


士君子といわれる学徳のある人が、幸いにも人に抜きん出て高い地位につき、衣食にも満ち足りている状態になっても、世の中を益するような立派な言葉を語り、立派な仕事をしようと考えなければ、たとえ百年の間も世の中に生きていたとしても、まるで一日も生きていないのと同じである。 ー 97ページ


徳望によって得られた富貴や名誉は、自然の山や野に咲く花のようなものである。それは、自然に枝や葉が伸び、自由自在に茂ってゆく。これに対して、事業の功績によって得られた富貴や名誉は、人工の植木鉢や花壇の花のようなものである。それは移し替えたり、捨てたり、拾われたりして、人間の心に左右されるものである。もし権力によって得られた富貴や名誉であったならば、花瓶に挿した切り花のようなものである。それは根がないものであるから、やがてしぼんでしまうのは目に見えている。 ー 96ページ


一生懸命に苦労している間には、いつも心を喜ばせる味わいがあり、反対に、成功して全てが上手くいっている時には、その中にすでに失意の悲しみが生じている。 ー 95ページ


古人の書物を読んでいながら、聖賢の精神にふれなかったならば、それは単なる文字の奴隷に過ぎない。また、学問を講じても、理屈ばかりで自ら行うことを大切にしなければ、それは口先だけで禅をもてあそんでいるに過ぎない。 ー 93ページ


名誉や利益という雑念をきれいさっぱりと払い去って、そこで初めて書物を読み、古の聖賢のことを学ぶことができる。心がきれいでなかったなら、古人の一つの善行を、密かに自分の善行にしてしまい、古人の一つの善言を聞くと、それを借りて自分の短所を隠す口実にしてしまう。 ー 90ページ


平凡な人間に生まれて、特別に何も遠大な事業をしなくても、ただ名誉や利益に惹かれる世俗的な心を払い落せたなら、それでもう名士の仲間に入ることができる。学問を成して、特別に何も学識を増す努力をしなくても、ただ外物によって心を煩わされることを減らし除くことができさえすれば、それでもう聖人の域に到達できる。 ー 44ページ


人としての志気は、淡白で質素な生活により磨かれて輝くものであるが、その節操は、美食で贅沢な生活により失われるものである。 ー 42ページ


君は暇な時にも、差し迫った時の心構えが必要であるし、また忙しい時にも、ゆったりとした暇な時の心のゆとりが必要である。 ー 38ページ


耳にはいつも聞きづらい忠言を聞き、心にはいつも思い通りにならないことがあったならば、それで初めて人間を徳に進ませ、行いを修めさせることのできる砥石のような役割を果たすものとなるだけである。 ー 35ページ


真理を自分の住家としてこれを守る者は、ある時は不遇でさびしい境涯になるが、権勢に寄りかかり、おもねりへつらう者は、ある時は栄えても、ついには永遠にさびしく痛ましいものである。真理に達した人は、常に世俗を超越したところに真実を見いだし、この身が終わって後の不朽の名声を得ることに心がけている。だから、むしろある時は不遇でさびしい境遇になることはあっても、永遠にさびしく痛ましくなるような、権勢におもねる態度をとってはいけない。 ー 30ページ

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